三河木綿は、どこから来たの!?三河木綿の歴史と、今も受け継がれる棉作り

 

 

 

 

 

天竹神社の棉祖祭

平成28年10月23日 西尾市天竹町の天竹神社で、今年も綿祖祭が行われました。

 

いつもは静かな境内も今日は、地元の人はもちろん、わざわざ遠くから歴史あるこのお祭りを見に来た人も大勢いました。

 

宮司さんを先頭に神殿の中に入り、神事が始まります。

 

今年も豊作でありますように!

人々が皆、幸せに暮らせますように!

神事が終わり、宮司さん等が出てきました。

神事が行われている間、地元の人達が

綿繰り機、糸車を使って棉の種とりや糸紡ぎの実演を見せてくれます。

体験もできます。

いよいよ、綿打ちの実演が始まります。

こんな道具を使います。

どんな風に使うのか想像もつきません。

境内に畳を敷き、白装束の男性が二人、そこで綿打ちの実演をして見せてくれました。

道具を使って種とりの終わった綿を糸で弾くとフワフワな綿が飛んでいきます。

 

昔はこんな風に少しずつ綿打ちをしていたんですね。

その昔、コンロン人が伝えたという伝説を模して船の形のお神輿があり、中に綿の種が入っていたという壺のレプリカが鎮座していました。

鳥居の前に四季桜の花が風に揺れていました。

のどかな、農村風景です。収穫の終わった田んぼには赤トンボが群れていました。

西尾の綿祖神社

天竹社

 

愛知県のホームページには棉祖祭について次のように記してあります。
「日本の綿栽培は、約1200年前、当時矢作川河口であった西尾市天竹町に崑崙人が綿の種とともに漂着して、村人に綿の栽培を教えたことが始まり。日本唯一の棉神様のお祭りです。
 天竹神社の棉祖祭は、綿を伝えた新波陀神(にいはたがみ)を祭る祭礼です。伝説では、延暦18年(799年)に崑崙人(こんろんじん/天竺人)が綿の種を持って今の天竹町あたりに漂着し、その種をこの地に最初に蒔いたことから、木綿の発祥地とされいてます。この祭りでは、海を渡って伝えられた綿にちなんで船みこしが担がれ、古式ゆかしい「綿打ち」の儀式も行われます。棉神様を祀る神社としては全国唯一のため、木綿関係者の崇敬も深く、祭りは多くの人でにぎわいます。
棉祖祭は、毎年 10月第4日曜日です。古式ゆかしい綿打ちの儀式が執り行われます。
 
「<一口メモ>棉と綿の違い」によると、
「棉」→収穫した実から種を取り除いた状態
「綿」→打ちほぐした状態
 ということだそうです。

綿祖神社内にある

御由緒

神社入口左隣に御由緒があります。

 

延暦18年(799年)7月にこの地に崑崙人(こんろん人・今のインドシナ半島あたり)」が漂着した。この崑崙人が壷に綿の種をいれていて、日本に初めて綿の栽培方法を伝えた。

この崑崙人の古画像が神社にあり棉祖神としてあがめた。綿が入っていた壷は、今も宝壷として神社に保管している。

と、記されています。

 

現在の旧糟谷邸
現在の旧糟谷邸

 

旧糟谷邸

 

糟谷家は,江戸時代この地方の大地主として,また三河木綿の江戸送りの

総問屋として栄え,代々縫右衛門(ぬいえもん)を襲名してきた名家です。

  

西尾市吉良町萩原にある糟谷邸は、現在約4500㎡の敷地内に,みせ部・座敷部・数寄屋(すきや)部のある主屋,長屋門,土蔵,屋敷神など総計約750㎡の建物が残っています

  

主屋は18世紀中ごろの建造,長屋門は天保のころ

小牧陣屋から移築されたものと言われる。

 

糟谷家に代々伝わる木綿の見本帳(縞帳)があり、それを『三河木綿保存会』の

高木宏子先生が再現し、市の図書館にあります。

現存する古い機織り機
現存する古い機織り機

糟谷邸にある手織り機

 

糟谷家は三河木綿の江戸送り総問屋として栄え、名字帯刀を許されていました。現在も旧糟谷邸には古い機織り機が展示されております。

糟谷邸に展示されている古いわた
糟谷邸に展示されている古いわた

綿の実から採ったわた

 

西暦799年の「類聚国史」や「日本後記」によれば、

崑崙人(インド人)が愛知県幡豆郡福地村(現在の西尾市)に

綿種を持って漂着した。
これが日本の綿の伝来と言われております。

 

江戸時代には三河地方で綿の栽培と綿織物が盛んになり、

「三白木綿」として江戸方面に送られました。

さらに西洋の技術を取り入れ、明治時代には「三河木綿

「三河縞」というブランド名で全国に知れ渡るようになりました。

 
この伝統ある「三河木綿」を復活し幅広い商品提案を目指して

平成19年2月2日付けで地域団体商標「三河木綿」が登録されました。

 

ぜひ一度「三河木綿」の素材を利用した商品に触れてみてください。